小倉百人一首は、藤原定家が十編の勅撰和歌集から選定した歌で構成されています。その一編に「千載和歌集」があります。後白河法皇の命で編纂され、選者は藤原俊成。定家の父親です。それまで勅撰集の選者は複数でしたが、千載集は俊成ただ一人。いかに法皇の信任が厚かったかが伝わります。

この千載集に「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」という一首が、詠み人知らずとして収められています。でもこれが平忠度(たいらのただのり)の歌であることは編纂当時から知られていました。

平忠度。平清盛の弟でれっきとした平家の武将。歌人としても優れ俊成とは師弟関係にありました。しかし源氏の台頭で平家一門が都落ちする中、忠度は秘かに俊成宅を訪れ「一首でも世に出していただければ」と自作の歌集を託し、その7ヶ月後、一ノ谷の戦いで没します。

文化と政治が同じ人々で担われたこの時代、朝敵の歌を勅撰和歌集に載せること自体憚られるなか、俊成は詠み人知らずの手法を用いて忠度の一首を選びます。法皇もこれを排除せず、俊成のはからいを黙認します。このあたりの俊成や法皇の意図がどのようなものであったかについては、古典の授業で習われた方もたくさんおありでしょう。

俊成と定家。親子ともその名声に比べて官位には恵まれなかったようです。これは両者とも些細なことですぐにキレるタイプだったからとか。ただ人は不遇な人生を歩むと、良くも悪くも感性が磨かれ、他人を見る目が鋭くなり、そしてその屈折した心理が、本当の意味で人の心を打つものがわかるのかも知れません。

和歌の世界。一首一首の背景を知ると、味わいはさらに深まります。

(五十嵐 幸夫)