明治後期から大正にかけて、京都のまちの近代化に向け、京都三大事業と呼ばれるインフラ整備が進められます。「第2疎水開削」、「上下水道整備」、「道路拡幅と市電敷設」の三つで、総予算は当時の市税収入の34倍にものぼったというビッグプロジェクトでした。

その事業の中心となった人物が第2代京都市長の西郷菊次郎。西郷隆盛の息子です。初代市長からの事業申請を認めなかった明治政府は、菊次郎からの申請はあっさり認めます。これは計画の妥当性や菊次郎本人の力量によるものでしょうが、俗な見方をすればやはり、既に没しているとはいえ父君の国民的な人気にあやかったところが大きかったと思われます。

この西郷隆盛が終生にわたって好んで用いた語が「敬天愛人」(けいてんあいじん)。「天を敬い人を愛する」というシンプルな表現ながら、人としての真のあり方を示す言葉として多くの人に受け容れられ、京都の名だたる企業の社是としても用いられています。

明治2年。京都の町衆はいち早く近代教育に着手し、64もの小学校を創設します。学制発布に先んじて創られたこれらの学校は番組小学校と呼ばれ、その歴史を受け継ぐ学校は今なお市内に存在します。「敬天愛人」はもともと学問の目的を述べた語で、この頃の小学校には敬天愛人と書かれた扁額が掲げられ、中には隆盛自身が揮毫したとされる扁額も掲げられていたとの話も伝わります。

おりからの西郷ブーム。京都の近代化にいろいろな形で影響を与えた南州翁を知るのも面白いかも知れません。

(五十嵐 幸夫)