※同じ視覚障害をもつライトハウス職員が、視覚障害をもつ方々の「生の声」を、お伝えしていくこのコーナー。第6回目は「かがやく視覚障害者の皆さん」の第3回目にもご出演いただいた小寺洋一さんです。実は筆者の久保と小寺さんは、京都ライトハウス鳥居寮で同時期にリハビリテーション訓練を受けた「同じ釜の飯食った仲間」。さーて今回はどんな話になっていくのか?

久保 小寺さんの、今の視力の状態はどうですか?
小寺 病院を退院したころ、だから今から20年ぐらい前になるかな。その頃は光が何とかわかったり、目のすぐそばなら何かが動いているな、ということがわかる程度だったけど、今は全く見えないな。
久保 改めて聞くんだけど、どんなふうにしてみえなくなってきたの?
小寺 大学は理工学部だったんだけど、結構危険な薬品なんかも扱っていてね、ちょうど実験が終わって、しばらく放置しておく段階だったんだけど、その薬品が急に吹き上げてきて、顔と口に浴びちゃったんだよ。すぐに入院して治療してもらったんだけど、数か月で両目とも見えなくなった。それが僕の視覚障害者デビューだね。
久保 「デビュー」ですかー。そこまで思えるようになるまでに、正直いろいろと気持ちの上で葛藤なんかもあったんじゃない?
小寺 もちろんさ。初めは少しでも視力がのこってくれることを切望していたし、治療もがんばったよ。でもそのうちだんだん視力が低下していった。「ぜんぜん見えなくなったら、どうしようもない。死んでしまいたい。」なんて思った…。で、ある時、同じ部屋に、ロービジョンの人が入院してきた。その人は手術の関係で、何年かに1回入院しなければならなかったらしいんだけど、もう視覚障害のベテランといった感じの人だったんだ。デビューしたての僕は、初めて視覚障害者のベテランさんに会ったわけさ。その人がいってくれた…「見えなくなってもあきらめる必要はない。IT機器なんかを用いて大学なんかで学んでいる人もいるし、君ならできるよ」。すごくポジティブなことをいってくれたんだ。それとともに京都ライトハウスという施設があることも教えてくれたんだ。僕22歳だったんだけど、視覚障害者として40年も、50年もやっていこうなんて気にはなれなかったけど、とりあえず10年やってみて、どうなるか?大変なことばかりで、くじけるようだったら、その時点でまたかんがえればいいか、ともかく10年、と思って、鳥居寮で訓練を受けることにしたんだ。
久保 見えなくなってきた、という事実がどうしてもこれからずっと先のことまでかんがえさせてしまうけど、小寺さんは、とりあえず10年、という区切りみたいなものを決めることで、気持ち的にも少し楽になったんですね。
小寺 そうだね、そして当時鳥居寮の所長さんだった田尻さんという人が、病院まで会いにきてくれたことも大きかったよ。全盲の人が、ここまできてくれたということのうれしさと、バスや電車を乗り継いでここまでこれるんだ、という驚きがあったよ。怖気づいたところもなく、堂々としてはったのに接して、「自分もこんなふうにやっていけたらいいな」なんて、あこがれのようなものも感じたな。
久保 鳥居寮に入所して、訓練を受けるということになって、実際入所してみての感じはどうだったですか?
小寺 びっくりしたのは、入所して、次の日からすぐに寮の中を掃除させられたこと。ある意味すぐに実践なんだな、と感じたよ。厳しいな、と思ったけど、見えなくてもちゃんと自分がやらなければならない分担みたいなものが決まってるということが少しうれしかったな。もう少し「お客様気分」でいられるのか、と思ったんだけど、そこはやはり視覚障害者の施設だね。見えないということでのハンディはハンディとして、とりあえず役割があって、それをしっかりしていく。その役割っていうのが、一般社会では、見えないからつい役割なしってことになるよね。でも鳥居寮ではそうではなかった。視覚障害者デビューしたての僕にも、容赦なく掃除当番が回されたよ(笑)。でも掃除を通してだけでも、見えなくても以外にできることあるんやな、と思えたね。
久保 そうですね、生活の一つ一つの場面で、見えなくてもできることがある、むしろいろいろ工夫していけばそちらのほうが多いってことを感じてもらうことが大切ですよね。で、視覚障害者デビューしたての小寺さんは、訓練生時代、どんなこと考えてたの?
小寺 視力を失って、ハンディがあるわけだけど、このハンディを解消するために、もちろん聴覚や触角を最大限に活用することが、まず最初だよね。それ以外に何があるか?そこを考えたんだ。僕なりに行き着いた答えは、「心力(しんりき)」。これ僕が作ったことばなんだけどね、心の中でイメージしたり、シミュレーションしたりする力のこと。この「心力」を、自分自身がどれだけ活用できるのか試したかったこともあり、海外で暮らしてみることにしたんだ。
久保 「心力」とは、いい言葉ですね。それを試しにニュージーランドへ行ったわけだけど、実際にその「心力」を試すことはできた?
小寺 ニュージーランドへ行く前、ほんまにニュージーランドの街で自分が暮らせるのか、バスなどを使って移動できるのか、宿の中で他の人たちと一緒にやっていけるのか、いろいろ考えた。考えて、考えて、「心力」を最大限に発揮した。そして最終的にたどり着いたんだ。僕が視覚障害者になって身に着けた力は、単に京都で暮らすということのためだけでなく、他の場所でも使えるはず、基本は変わらず、京都でもニュージーランドでも同じで、それは連続的に繋がったものなんだということに気付いた。京都で移動するのも、ニュージーランドで移動するのも、基本は一緒なんだ、京都の自宅で暮らすのも、」ニュージーランドで暮らすのも、基本は一緒なんだ。見えない状態で、やるべきことには変わりないというところに落ち着いた。クイーンズストリートという通りがあって、そこを左に入って少し行くと、小さなスーパーらしきお店があって…。ちょうど京都市内を覚えるのとよく似ていたよ。
久保 そうかもしれませんね。言語の違いや、文化の違いなどあるけど、見えないなりにやっていく工夫や技術は、基本的にどこへ行ってもかわらないもんね。
小寺 僕は一人旅だったんだけど、宿で友人ができるかも不安だった。たくさんの人と話したいなとも思ってたけど、自分から声をかけていくのは苦手なほうだった。だから、どんなだったら、見ず知らずの日本人の僕に話しかけてくれるか、僕なりにイメージしてみた。そこで思いついたのが点字なんだ。宿のロビーなんかで、僕が点字を書いている…。そこへ人が通りかかって「これが点字なのかい?」なんて、声をかけてもらうきっかけができるんじゃないかと思ったんだ。
久保 自分のやり方、持っているものなんかを最大限に活用できるように、イメージしていったんですね。でもイメージしていく過程で、僕なんかはどうしても悪い方向へ思いが向いていくことも多いんだけど、小寺さんはそんなことはないですか。
小寺 うーん、そういうこともあるよね。僕だって、ニュージーランドに行くまではいろいろいやなことも考えた。例えば、財布をすられるんじゃないかなんてこと。見えない、しかも日本人と見たら、すりが近づいてきやすいんではないかと思ったよ。どう切り抜けるか、最初はなかなかいいアイデアが思いつかなかった。でも「心力」を生かしてイメージしていくうちに、一つ思いついたことがある。「動かず、じっとしてると、すりも近づきやすいかもしれないし、すられたこと自体にも気づかないかもしれない」。だから、僕は町の中でつっ立っていたとしても、30秒に1度は体勢を変えていた。ちょっと落ち着きのない日本人にみえたかもしれないね(笑)。このアイデアがよかったのかどうかはわからないけど、自分でも何かいいアイデアが思いつくんだ、という自信にもつながったよ。
久保 いろいろ考えながらのニュージーランド一人旅だったんですね。そんなお話をお聴きしていくうちに、小寺さんのかきはった「白い杖のひとり旅 ニュージーランド手探り紀行」を読み直してみたくなりました。