<受賞される本間昭雄氏>

9月10日、京都ライトハウスあけぼのホールにおいて、鳥居賞の伝達式が約100名の参加で行われ、田尻彰故鳥居篤治郎先生遺徳顕彰会代表から第30回鳥居賞受賞者の本間昭雄氏に賞状と記念品・副賞が贈られました。

本間昭雄氏は、20歳の時に中途失明され、失意から立ち直る中、独学で点字を学ばれ、日本社会事業学校初の盲学生として入学されました。社会福祉の専門的な学習をされて卒業後、自身と同じ境遇の失明者の福祉のために1955年に聖明福祉協会を設立されました。

その後、約10年に及ぶ視覚障害者宅への家庭訪問事業などの先駆的活動を経て、土地の購入や資金集めに大変な苦労をされながらも、1965年に養護盲老人ホーム聖明園曙荘を設立されました。さらに高齢者福祉のニーズに応え、特別養護盲老人ホーム聖明園富士見荘、特別養護老人ホーム聖明園寿荘も経営され、利用者への温かいケアに努められています。

1968年には全国盲老人福祉施設連絡協議会を設立され、1990年に会長に就任されるなど、全国の高齢者福祉の発展と文化の向上に大きな実績を残してこられました。また、1969年には日本初の盲大学生奨学金貸与制度を創設され、現在までに196名が利用され、多くの方が社会の第一線で活躍されています。

これらの業績は、視覚障害者福祉の発展に大きく寄与するものであり、鳥居賞に値するものと高く評価をされました。

受賞者のご挨拶の一部を掲載いたします。

本間昭雄氏の挨拶

私の最も敬愛して止まない鳥居先生の名前を冠したこの賞をいただいたことは大変ありがたく光栄なことです。田尻代表から過分なお言葉をただいたことについて重ねてお礼を申し上げたい。ありがとうございました。

私も、失明しましてから福祉の道に入りまして、本日まで60年間、健康に恵まれて、この仕事で働く機会が与えられたことは大変ありがたいことと思っています。長い間、働かせてもらいましたので、数多くの思いがけない賞を頂戴しました。中でも特に忘れられないのは、昭和62年6月、私の母校である社会事業大学の学会賞をいただいたときは、格別の思いでありました。今回、生前に多くのことをご指導いただいた鳥居先生の賞をいただきまして、本当に嬉しくてあのときの学会賞に勝るとも劣らないような喜びと感謝を感じて、この席に立たせていただきました。

個人的にも先生といろんな意味でご厚誼をいただいたことを思い返しながら感謝の気持ちでお礼を申し述べさせていただきます。

記念講演 <摘録>
「夢と希望に生きて〜道一筋60年〜」

<講演される本間昭雄氏>

私も年を重ねて参りまして、身辺整理でテープの整理をしておりました。鳥居先生のテープが手に触れました。名古屋ライトハウスの片岡好亀先生から鳥居先生に、是非生い立ちから現在までの歴史を録音しておいて、という要請があり、多忙な中、昭和40年に作られたもので、まさに先生の人格形成から生き様そのものが入っているものです。その中で「71歳になる今日まで、夢と希望を忘れたことがない。今も持ち続けている」と言われました。まさに同じ気持ちなので演題といたしました。先生の人生と比べるべくもありませんが、人生やものの考え方をこのテープで再び教えられたように思います。
明治27年、丹後縮緬の織元の家に生まれた先生は慈愛に満ちたご家族に囲まれて、素直に育って行かれます。両親は他の子と同じように育てられ、海に山に、野原にかけめぐり、お父様は、散歩するときは一緒に歩き、看板があると読み聞かせられました。それは小さい頃培った知識として役立ちました。お母様はいくつになっても顔をのぞき込むようにして、何とか見えるようにならんかなあ、とお母様らしい思いをなされました。お祖母様は一生懸命願掛けをされておられた。先生は本当に幸せな人生だったと言われました。
先生は京都府立盲学校に誇りを持っておられました。校長先生の鳥居嘉三郎先生にとてもかわいがられ、同時にしかられたと。そこで三谷復二郎氏、小林卯三郎氏など知り合われました。
さらに東京盲学校師範部に進まれ、東京光の家の創設者である秋本梅吉氏、東京成城学園親愛ホームを経営された枚方龍男氏などと知り合われました。二人とも熱心なクリスチャンで聖書を大切にされました。人に恵まれたことは幸せだった、良き友は無形の財産、先生はその思いで今日まで歩まれました。私の思いと共通いたします。
先生はバハイ教の信者でした。人生の中でバハイの教えが大きく支配したことがテープから伺えました。世界は一つ、人類は皆兄弟、偏見を捨てて公平に見ることが大切とおっしゃられた。
先生は、京都ライトハウスを創立した後、高齢失明者にとても関心を持たれまして、私が京都にいくと、「聖明園に行きたい、時間を取っていきたい」と言われました。当時、先生は日盲連会長を務めるなどで大変忙しく、なかなかチャンスが無かったのですが、ようやく実現したのが昭和39年のことで、厚生省の初代老人福祉専門官の堀氏などと来園されました。長い時間ではなかったのですが、気持ちの上でゆっくりお話しできたのはこの時だけでした。翌日、早速お手紙をいただきました。先生は、芸術を愛し美を追究する思いは強いとされ、そのお話やお手紙は文学的でした。人格は素晴らしく、多くの人から尊敬の眼差しで見つめられておられました。

次に、社会事業の歴史を大切にする思いを話します。研修に来る学生に石井十次・留岡幸助・山室軍平を知っていますかと聞くと、知らないと答える。社会福祉史を勉強する学生が少ない。
昭和30年代にフランスから、子供の教科書の副読本として、100年の間に大きな業績を残した社会事業家を4人推薦してほしいという話があり、日本は石井、留岡、山室、そして若い岩橋武夫を加えて資料提供しました。
石井は、岡山医学校で医者を志します。貧しい巡礼が孤児を連れてきた。石井は孤児のために尽くすことという神の啓示を受けて悩むのですが、全てを捨て岡山孤児院を創設します。未練が残るから医学書を全部燃やしました。明治39年東北大飢饉で孤児が続出したとき、馳せ参じて、824名を連れ帰って1200名もの世界一の孤児院になりました。当時は制度・法律・補助金・委託費が無い。周りはどれほど心配したことか。石井は「方法は後から付いてくる。精神さえあれば、方法は別にある」と言いました。寄付金を集め、財界から資金集めをしながら孤児を養いました。今日では措置・委託費、公的助成がある。その上にあぐらをかいて方法論を言うのが今日の事業家。私は朝礼でこの話をよくするが、精神論ばかりでいかがといわれます。しかし使命感・熱意こそが社会事業家の基本と強く思います。
留岡は、同志社大学で学び、明治32年、家庭学校を東京に創設、家庭的な雰囲気で、不良となった子を社会復帰させるために一生を尽くします。外国にも学び、監獄を視察し改善、死刑廃止の提案者。明治42年北海道に分院を作り、自然の中で農業・牧畜・林業などで一体的に職員が子供たちのために尽くしました。社会事業の月刊誌を出し、啓発運動にも力をいれました。
山室は印刷工などを経て、石井と出会い、救世軍に入り、日本初の士官となります。労働者のための寄宿舎を作りました。当時の医療はお金がなければ、治る病気も見てもらえない。救世軍病院を作りました。明治42年から繁華街で大きな社会鍋を置く募金活動を始めました。
この3人は社会事業の原点を作られた。共通点は、熱心なクリスチャン。しっかりした信仰を持って、強い思いで、弱い人のために戦いました。 
岩橋先生はよくご存じなのであえて触れません。いずれにしても、福祉の原点というものをしっかりみつめ、今何をなすべきかを考える。社会事業家の末端を汚す人間として、歴史を大切にして、人生観・人生哲学を学んでほしいのです。

最後の柱ですが、失明したからこそ今日があるということです。失明しなかったなら多くの人との出会いがなく、人の痛みもわからなかったろうと思います。
私の家は代々医者の家系です。京都市東山区の観音寺医聖堂に医学界の聖人を祀ってあるが、本間家の7代目が、内科学・外科学の日本で最初の学術書を残すなどの貢献をしたということでそこに祀られています。
私も失明の時は悩み苦しみ悶えました。でも割と早く立ち直れて福祉を学ぶことができました。ここでも尊敬する人との出会いがありました。立教大学卒の永井実太郎という全盲の方。見えない方でこんな素晴らしい方がいるのか。この人のためなら犬馬の労も惜しまないと傾倒しました。ヘレンケラー学院で教鞭をとり、聖ルカ失明者更生協会を作られました。更生施設作りをお手伝いしましたが、十分な援助を受けることができず挫折しました。残念ながら御心にそいませんでした。でも、そのお手伝いが聖明福祉協会創設にどれほど参考になったことか。20代半ばで多くの政財界の方とのパイプがあって、一所懸命活躍した頃を懐かしく思います。
現在280人の利用者をお預かりしています。私自身は学業半ばで失明したので、何とかして奨学金制度をという思いがあり、聖明福祉協会で制度を作り、現在196名の方々がご利用され、今や盲人社会すべての分野で指導者として大活躍をされています。自分では何もできませんでしたが、人作りではいささかのお役にたてました。失明したからこそ、多くの人に支えられ成就できました。ただ感謝あるのみ。残された時間は長くはありませんが、夢と希望は捨てていない。若干なすことが残っています。捨ててないということを肥やしとして頑張りたいと思います。
ご清聴誠にありがとうございました。

<受賞者を囲んで>

文責:山本たろ