※同じ視覚障害をもつライトハウス職員が、視覚障害をもつ方々の「生の声」を、お伝えしていくこのコーナー。第7回目は、第6回目に引き続き、臨床心理士の小寺洋一さんです。さーて今回はどんな話になっていくのか?

久保 前回は、鳥居寮での訓練のことや、ニュージーランドでの生活の話などを通じて、「心力」ということばが一つのテーマになったかと思うんだけど。
小寺 あはは、あれは二人で考えた、なかなかいい造語ですね。
久保 小寺さんは臨床心理士になるために、大学に進学されたわけだけど、在学中は、いろいろとしんどいことなかった?
小寺 大学だけではなく、一般的な話になってしまうけど、僕たちのような視覚にハンディがある人が、大学のような一般社会に、入っていくと、ごく自然にしているだけでは、周りから取り残されていくんだな、と感じたよ。昔のように目に見えるような差別があるわけじゃないけど、こちらの存在を周りにも少し意識してもらわないと取り残されてしまうんだ。だから、周囲に理解してもらうことも兼ねて、いろいろお願いしていくことが必要なんだけど、僕らのような視覚にハンディをもつ人のことを知っている人ばかりじゃないよね。一から説明していくことも要るんだけど、それがまた、結構パワーの要ることなんだよ。
久保 そうだよね、お願いしていくには、まずこちらのことを知ってもらうことが大切。でも知ってもらうために、いろいろ説明していくことも、結構力が要ることだよね。
小寺 講義や実習なんかで、他の学生を見ていると、「あんなこともしている」、「こんなこともしてる」なんてことを感じると、それらができていない自分との大きな差を感じたな。そんな時には「もっと強くならなければ!」と思うこともあったし、周りに対して自分から距離を感じてしまったりそんなことの悪循環みたいなことも多かったよ。
久保 このあたりは当事者でないと、なかなか感じにくいところだよね。周りは何も悪いようにしようとか、差をつけてやろうなんて考えてなくても、僕ら自信が、できていないことに引け目だったり、「皆と何か違うよな」ということを感じ、周りとの距離を空けてしまうってことがあるよね。
小寺 気がついたら、家、学校、スーパーという、狭い範囲での生活にとどまっていたこともあったなー。でも、そんな自分でも気持ち的に燃えていたところもあるんだ。前回も話したけど、一体自分がどこまでできるのか、試してみたいという気持ちだね。ちょうどパソコンが僕たちにも少しずつ使えるような状況だったので、ノートはパソコンで取ろう、辞書もパソコンを使って調べよう、なんて考えて、どこまで視覚にハンディがある人が大学で勉強できるものなのか、確かめてみたかったんだ。
久保 じゃー、周りに距離を感じてしまっている自分と、強い気持ちをもって臨もうとしている自分、どのように折り合いをつけていったの?
小寺 うーん、たまたまうまくいった、ということも多いんだけど、最後には「自分を信じる」ってことになるのかな。カウンセラーの資格を取る時、どうしても現場経験を踏む必要があったんだけど、その現場を見つけることが大変だったんだ。僕でも受け入れてくれる現場ってのは、なかなか見つからなくてね。「視覚障害者は無理!」と、即座に撃沈させられたこともたくさんあったよ。たまたま一つこれだ!ってのがあって、それは電話での対応を中心とする現場だったんだ。一つあるか、ないかのチャンスだったと思う。運よくそこで現場実習できた。僕のような視覚にハンディを持つ人でも使ってみようという人たちがいてくれて、そして、どうにかしてやって行こうとしている僕を応援してくれる人たちがいて、そんな中で、僕自身もやれるだけのことをやっていく。そんな条件が揃ってこそ、チャンスにつながっていくんじゃないかな、と感じた経験だったな。
久保 途中で燃え尽きてやめてしまおうなんて思わなかった?
小寺 大学の勉強では、例えば、対面朗読をしてくれた人や、スキャナで取り込んだデータの校正を手伝ってくれた人なんかもいて、そんな人たちがいてくれたことも、僕自身が燃え尽きずにいられた理由の一つだと思う。それに、スタートとして、心のことを勉強して、それを仕事に繋げていけたら…という気持ちがあったんで、時間もかけられた。僕なりに本当にしたいことだったんだ。そこへ向かっていくために、自分のもっている力を出し切るしかなかったし、もしやめてしまえば、きっと後悔するってこともわかっていた。だから、今自分にあるチャンスを、しっかりつかんでおくために、できることをしようと思ったんだ。22歳の時に失明して、でもここまでやってこられた、ということを振り返ると、「あともう少しがんばることもできるんでは」とも思えたな。話は大きくなるけど、きっと誰だって、目の前にはいろんなチャンスがあるんだと思う。華やかなものも、地味なものもね。でも、目の前にした本人が、それをチャンスとしてしっかり受け止め、それを生かせるようにがんばることができるかどうかで、大きく道が分かれるんじゃないかと思う。すごく地味なチャンスだとしても、それを生かせるようにいろいろとチャレンジしている人って、やっぱりすごいな、と感じる。
久保 話は変わるけど、見えないというハンディを抱えた中で、カウンセラーという仕事をしていく上で、「見えないからこそできているんだな」って思うことってある?
小寺 いくつかあると思うね。周りの人は、僕を見て、「苦労せずに、ここまでやってこれたんだろう」なんてことを思わない。やっぱり「苦労の塊」といった感じをもつ人が多い。でも、そのような人からの、苦労に裏打ちされたことばを聴きたいという人も多いんだ。きっと苦労に裏打ちされたことばが、真実の力を発揮することもあるんだろうね。僕の立場からいえば、苦労の種類が違っていても、苦労というものを知っているつもり。だから相談に来た人の苦労も、より肌で感じやすいのかもしれない。そして、僕が、自分なりに自然に明るくしてることで、相談に来た人は「見えないというハンディがあるのに、どうして明るくできてるんだろう」ということを思うだろう、そこで何らかの希望をもてるかもしれない。
久保 なるほど。「見えないというハンディがあるのに…」という向こう側にヒントを探すきっかけになったり、希望を見出す人がいるかもしれないってことだよね。
小寺 カウンセラーが、その相手に何かするというよりも、考えてもらうきっかけにしてもらうってことが大きいよね。いろんな人との出会いの中で、考えるきっかけになったり、切り口を変えて考えてみるということにつながったりすることって、カウンセラーとしては悪くはないね、と思う。もう一つ、声に集中してるっていうのは、相手に、「あなたの話を集中して聴いています」ってことが伝わりやすいんだと思う。カウンセラーの仕事としては「聴いています」という姿勢を出すことも大事だし、相手にも「しっかり聴いてもらっている」って感じをもってもらうことも大切。そのことでも、声に集中できるってことは大きいと思う。周りからは「相手の表情が見えなければ、やりにくいのでは?」と聴かれることも多い。でも、例えば沈んでいる声、体の中から元気が湧きあがっている声など、それぞれの声が違うし、下を向いている時の声、乗り出している時の声もまた違うよね。それをしっかり受け止めてコミュニケーションしていたら、何とかなるもんなんだよ。「はい」ということば一つでも、その声から、しっかり納得できての「はい」なのか、本心からの「はい」ではないな、と分かることがあるよね。見えていなくても声に対する感度が視覚を超える瞬間があるんだと思うんだ。見えないからこそ、聴くことに集中できる、やはりこれは僕が見えないからこそできることの一つじゃないかな。
久保 もしかしたら、僕たち視覚障碍者は、声に対する感度をしっかり」もっているということ、そのこと自体にあまり気づいていないことも多いのかもしれないね…。この続きは、今度はゆっくり場所も変えて飲みながらでも話しましょう。